言葉について
日本人の根幹を形作るのは日本語です。
「グローバル化に対応できるように、英語教育の充実しよう」ということが、必死に叫ばれていますが、日本人が日本語の理解を深めることの方が比べ物にならないくらい大切なことだと思います。
日本人の根幹を形作るものを、学校できちんと教えることが、ないがしろにされている現状は、甚だしく問題があると思います。
これはつまり、日本人が「賢く」なる機会を著しく失っていることに他なりません。
うがった見方かもしれませんが、国民全体の日本語の理解が乏しいことが、
クソみたいな今の国会や、セクハラ問題を国家の根幹を揺るがすように取り上げるマスメディア、労働を苦にして自殺する人が後を絶たないことなど、
日本社会が歪んだものになっている原因だと僕は思っています。
要約
- 言葉には「思考の道具としての言葉」と「意思疎通の道具としての言葉」の二つの面がある。
- 「思考の道具としての言葉」の使い方の上手さが、所謂「賢さ」である。
- 多くの日本人にとって「思考の道具としての言葉」は日本語である。
- 第2言語の習得は「意思疎通の道具としての言葉」の習得でしかない。
- 英語(第2言語)を習得することよりも、日本語をきちんと使えるようになることの方が比べ物にならない程重要である
- にも関わらず、「正しい日本語の使い方」を示すことのできる人が少ない
- そのことが今の歪んだ社会の原因である
言葉には、二つの面があると思っていて、まず一つ目が思考の道具としての言葉。
言葉がなければ、考えることは出来ません。ここで、考えることと感じることとは区別しておく必要があります。
例えば言葉がなくても痛みを感じることは出来ます。また、痛みと同時に嫌な気持ちにもなります。
ですが、言葉がなければ、なぜ痛いのか、どう痛いのか、この嫌な気持ちに対してどう対処すれば良いのか、を整理することは出来ません。
言葉があるからこそ、「ボールが顔面に直撃して目の上がジンジン痛くて嫌だ。痛みが引けば嫌な気持ちもなくなるから、とりあえず目の上を冷やそう」と考えることができます。
この「感情と感覚の整理」が「考えること」だと言えるのではないでしょうか。
そして、「感情と感覚の整理」の上手さが、「賢さ」なんだともおもいます。
この思考の道具としての言葉は、謂わば人の中身であると言え、人の精神の根幹を形作るものです。
言葉のもうひとつの面は、意思疎通の道具としての言葉です。人間と人間は、基本的に以心伝心は出来ないので、相手に自分の意思を「明確に」伝えるためには、言葉を発するか、文字を書くかしかありません。
意思疎通の道具としての言葉は、謂わばその人の外面に当たるものです。
ここで注意すべきなのは、相手に伝わるように言葉を使うには、うまくその言葉が、整理されていないといけないという事です。
雑然とささくれだらけの感情を相手に投げつけ合ったとて、そこに相互理解は生まれません。
つまり、意思疎通の道具としての言葉は、思考の道具としての言葉をうまく使いこなせていないと、意味を成さないのです。
まあ、簡単に言うと、中身がなければいくら外ヅラが良くても意味ないっすよね、ってことです。
そして、英語などの第2言語を学ぶことは、意思疎通の道具としての言葉を学ぶことだと言えます。
人の賢さは、思考の道具としての言葉の使い方の上手さ(感情と感覚の整理の上手さ)であって、意思疎通の道具としての言葉の使い方の上手さ(外ヅラの良さ)ではないです。
だから、いくら英語が上手くたって、その人が賢いとは限らないのです。
例えば、帰国子女ならある程度は英語が話せるでしょう。でも、帰国子女で英語が話せることとは、その人の賢さを何も保証しません。
別に帰国子女をディスってるわけじゃなくて、英語が話せる=賢い、は、間違ってるんじゃないですか?っていうことが言いたいだけです。
じゃあなんで、英語を話せる人が賢いと思われがちかというと、日本にいながらにして英語が話せるようになった人には、賢い人が多いからです。
つまり、思考の道具としての言葉の使い方がうまいから、意思疎通の道具としての言葉の習得の度合いが高いのです。
簡単に言うと、賢いから英語を話せるようになれた、のであって、英語が話せるから賢いのではないのです。
だから、親がこぞって子供を英会話スクールに通わせることを否定する気はありませんが、少なくとも、「英語が話せる=賢い」に目を奪われず、目的をはっきりさせておく必要があると思います。
子供に思考の道具としての言葉をちゃんと身につけてほしい、つまり、子供に賢くなってほしいのなら、英会話スクールなんて行く必要がありません。
子供に英語を話せるようになってほしいなら、英会話スクールに行かせることも意味があると思います。が、何度も言いますが、「英語が話せるから賢い」わけではありません。「賢いから英語が話せるようになる」のです。
子供から大人まで、言ってしまえば、みんな英語信仰に陥っているのが日本の現状だと思います。電車の広告を見れば、英会話スクールだの何だとのと。実際、学校で1番力を入れて勉強することも、文系だとほとんどの場合、英語だと思います。
ですが、日本人にとって、英語はあくまで外ヅラを形作る道具でしかありません。日本人にとっての中身つまり、思考の道具としての言葉は、日本語であるはずです。
日本人が賢くなるためには、日本の子供達が賢くなるためには、英語教育ではなく、日本語の使い方や言葉の定義からきちんと学ぶことが絶対に必要だと心から思います。
さて、僕と同じように、「日本語を正しく使えるようになるべきだ。」と言っている人はたくさんいらっしゃるし、よくテレビでも「正しい日本語の使い方講座」とかはよくやっていますよね。
ですが、それらのうちのほとんどは「日本語のマナー講座」であって、本当の意味での「正しい日本語の使い方とは何か」を明確に示している人はほとんどいないのです。
一方で、自分の記憶をたどる限りで言うと、義務教育の国語の授業の目的は、この文章を読んでどう思いますか?を問うことであって、この文章を正確に理解できましたか?を問うものではなかったように感じます。
文部省とかのエライ人は言葉の理解を求めていたのかもしれませんが、少なくとも僕個人の印象としては、国語は文章を読んでどう思うかを答える科目でした。
つまり、これが何を意味するかと言うと、学校の先生でも、正しい日本語の使い方を知っている人は多くないのではないでしょうか。
日本人の根幹を形作るものを、学校でも教えてもらえない現状は、甚だしく問題があると思います。
これはつまり、日本人が「賢く」なる機会を著しく失っていることに他なりません。
うがった見方かもしれませんが、国民全体の日本語の理解が乏しいことが、クソみたいな今の国会や、セクハラ問題を国家の根幹を揺るがすように取り上げるマスメディア、労働を苦にして自殺する人が後を絶たないことなど、日本社会が歪んだものになっている原因だと僕は思っています。
正しい日本語の使い方とは何か、に関しては僕なりにある程度の答えがありますが、長くなったのでこのあたりにして、また今度書きます。